「男山」は江戸時代から日本を代表する名酒として永い歴史と伝統を持っています。
また徳川将軍家の御膳酒に選ばれるなど、日本の歴史と文化への関わりも深く、多くの場面に登場しています。
「男山」は日本の代表的美術、浮世絵にも登場し、かの喜多川哥麿も男山を愛飲していたと伝えられています。

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喜多川哥麿「名取酒六家選 若那屋白露 木綿屋乃男山」
帯を前に大きく結び、片膝をやや立てぎみに手紙をしたためる白露の姿はその容姿の美しさばかりでなく、新吉原の大まがき若那屋で首席を占めたという彼女の貫禄を巧みに表現しています。そして図の左上に四斗樽が画かれ「木綿屋乃男山」と記されています。
この男山は江戸時代初期から禁裏の御免酒であり、また江戸幕府の将軍の御膳酒として、その名をとどろかした名酒でもあります。(浮世絵研究家 菊地貞夫)

喜多川哥麿「教訓親の目鑑」
心理描写の一連作で、封建家族主義の町人社会にあっては、家長の親が最高権力者であり、その目鑑に叶わなければ若い女の生きる道はありませんでした。ゆえに理口者は、本性者に見せかけ、かげでは寝て本を読んでいたのです。
「ばくれん」は、ギヤマンで酒を飲み美食をするあばずれ女、そのほか、女のよっぱらいとか、ぐうたら兵衛、といった親にはとうてい気に入られそうもない女の諸相、埒外の美が画かれています。

一勇齋[歌川]国芳(1797-1861)「誠忠義臣名々鏡」
この武者絵は国芳の晩年の作(1857年)で、元禄十五年十二月十五日早朝、吉良上野介義央を討ち果たした赤穂義士四十七士が回向院の隣り、江戸で大手の酒屋十兵衛の店を開けさせ、大高、堀部の両名が金二両を出して祝酒を所望した処「江戸に名だたる義烈なれば江戸に名だたる男山」と云う。
槍の石突きで四斗樽の鏡が抜かれ、浪士はのどを鳴らしつつ夜明けの江戸に勝鬨の声をあげたと言われています。(赤穂義人史より)

一勇齋[歌川]国芳(1797-1861)「大日本六十余州之内 武蔵」
その昔、江戸の末期、旗本(幕府直参の武士)の手下で悪さする者を、町奴組の庶民の味方であった幡随長兵衛という任侠人が、まな板の上で料理(成敗)してやる...という歌舞伎の一場面です。
この設定は、大きな料亭で酒が50駄(四斗樽100本)や、荷が100個入荷のたれ字幕が見え、男山の四斗菰樽がドンと据えられている情景が描かれており、この時代、清酒「男山」の人気が高かったことを示しています。(浮世絵研究家菊地貞夫)

菊川英山(1787-1867)「風流美人名酒合」
浮世絵の専門用語で「コマ絵」と呼ぶ所に酒樽が描かれています。これは寛政に流行した手段で、この女性も当時評判の美女であった事を表しています。

歌川国貞「歌舞伎 幡随院長兵衛」
この浮世絵は、歌舞伎の「幡髄院長兵衛」の三枚つづりのうちの一枚で、当時の人気歌舞伎役者「尾上菊五郎」の勇姿です。当時庶民に人気のあった有名な歌舞伎役者がこの題材で演じる役を浮世絵として描かれ大変な人気を盛り上げたということです。
横に男山の大きな四斗のこも樽が置かれ、舞台の重要な場面に格のある「男山」が使われています。当時「男山」は庶民には高値の花で、武士階級でないとなかなか飲めなかったようです。